【新著紹介】人文社会学科 佐藤 有希子
- 研究
【新著紹介】
『毘沙門天像の成立と展開』(中央公論美術出版、2022年3月)
人文社会学科歴史学コース
佐藤 有希子
毘沙門天はインドのクベーラ神を淵源とし、仏教における四天王の一尊として北方守護の職能を担った尊格です。四天王で最も高位の存在として、アジア全域で特殊な信仰と造像が行われました。この本は、毘沙門天がどのように信仰され関連する美術作品を生み出してきたか、その造形的特質と制作背景の実態を美術史的に位置づけることを目指したものです。
毘沙門天研究の鍵になる作品は国宝・東寺毘沙門天像(以下、東寺像)です。中国・唐で制作され、空海(774~835)が請来し、平安京羅城門に安置したとするのが通説であり、平安から鎌倉初期にかけて多数の模刻(コピー)が行われ、日本彫刻史のなかで特異な一群を形成しています。東寺像に関しては1998年、『美術研究』370号に岡田健氏と松浦正昭氏が同時に発表した論考で、互いに対立する見解が提出されました。岡田氏は、空海請来説と羅城門安置説を否定し、請来者は9世紀後半の入唐僧と想定したのに対し、松浦氏は、東寺像は最澄(767~822)による請来説を提起し、羅城門に安置されたと主張しました。両説の発表から20年以上が経つものの、いまだ議論が束していません。平安時代に毘沙門天信仰が流行する契機となった東寺像の問題を解決しないかぎり、日本所在の毘沙門天像に関する研究は停滞傾向から抜け出せないと予想されました。
そこで、この本の第一の目的は、アジアにおける毘沙門天の美術史的位置付けを網羅的に行うことにしました。第二に、上記の研究史上の大きな問題を解消することを目的としました。そのため東寺像やその模刻である同・清凉寺毘沙門天像、青蓮院像など、東寺像に関する議論を中心としました。
この本は地域・時代を一つに限定せず、7世紀から14世紀のアジア世界を対象にする研究史上初めての試みです。従来のような、彫刻・絵画どちらか一方のみに偏る傾向の強かった美術史学の研究動向とは異なり、双方を視野に含む方法もいままでにないものです。社会史的・宗教史的な観点も取り入れることで毘沙門天造像における思想背景を多角的に解明し、その造形がいかに社会のなかで機能していたかを説く点に、この本の新機軸があります。また、毘沙門天の図像史のみではなく、日唐宋の仏教文物交流史や、舎利(釈迦の遺骨)への信仰との関わりなど、近年の仏教美術史や歴史学でも問題となるテーマについても各所で言及しており、最先端の流れに棹差すものといえるでしょう。
上記の目論見のもと、この本は大陸の毘沙門天像に関する第一部と、日本の毘沙門天像を扱う第二部で構成されています。第一部で日本に伝わる以前の源流を辿る形で、7世紀以前の毘沙門天図像の成立から14世紀までの展開、すなわち中央アジアから中国・韓国までの伝播ルートと大陸での展開の様相を探ります。第二部で、8世紀から14世紀、奈良時代から南北朝時代の毘沙門天像の展開・受容史を通じて、外来文化とわが国の造形作品との関わりを論じます。インド・西域を経て、中原から伝えられた思想・信仰とそれを表象するかたちが、わが国ではどのタイミングに、どのように受け入れられ、各地域で時々に変容したのか、毘沙門天という特定の視点から具体的に位置づけています。
第一・二部を通して、東寺像の問題を足掛かりとしながら、7~14世紀の毘沙門天像の造形的特質と制作背景の実態を歴史的に位置づけました。北インドで発生した信仰と図像が中央アジアを経由して中国に伝わり、そこから各地へ浸透した経緯と構造を明らかにしたといえます。毘沙門天の図像史を中心に、おおよそ7世紀の間にもわたる長い期間、そして東アジア・中央アジアと日本列島という広範囲に目を配りながら論考を積み重ねました。これらの造形についての考察を通じて、文字資料のみでは見ることのできなかった歴史の姿を描き出すことができていれば望外の喜びです。
この本は独立行政法人日本学術振興会令和3年度科学研究費補助金(研究成果公開促進費)の交付を受けた出版です。