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【新著紹介】言語文化学科 尾山 慎

  • 研究

【新著紹介】

『上代日本語表記論の構想』(花鳥社、2021年2月)
言語文化学科日本アジア言語文化学コース
尾山 慎

文字を書かない日(打たない日)というのはあるかもしれませんが、起きてから寝るまで全く一文字も見ないということはまずないと思います。それくらい、当たり前のように私たちの身の回りに存在している漢字、平仮名、片仮名。日本語は現在、それら以外にも、ローマ字、アラビア数字をも含め、最大で五種類を同時に混ぜて書くという世界でも珍しい言語です。ローマ字とアラビア数字はひとまず措くとしても、長い歴史上、少なくとも三種類はずっと使ってきました。その古い時代へと遡っていくと、面白いことに、私たちの使い分けとは違う世界が見えてきます。たとえば貴族の日記ならほとんど漢字だけ、和歌だとほとんど平仮名だけ、漢文を訓読したときは漢字と片仮名を混ぜるといった具合です。私たちは現在、漢字の比率が多少変動する程度で、メール、新聞、法律の条文といったメディアごとで表記のスタイルを大きく変更することはあまりないでしょう。それと比べれば、古い時代のそういったスイッチングは興味深いものがあります。

平安時代にはもうこの三種類の文字は出そろっているのですが、私の興味の中心はそのもう少し前の時代、奈良時代以前にありました。実は奈良時代以前は、まだ平仮名や片仮名が生まれておらず、漢字だけでした。日本語は独自の文字を持たなかったので、お隣の中国から借りてきた漢字一種類だけで日本語を書いていたわけです。「ならのみやこは」なら「奈良能美夜古波」などと書いていました。そのあと1300年におよぶ日本語の歴史を考えるうえでも、奈良時代以前の様々な漢字の使い方の謎を解き明かすことは重要です。現在だとフリガナや送り仮名がありますが、奈良時代以前にはそれがありません。一つ一つの漢字は知っていても、全体としてどう読むか困るときがしばしばあります。文法研究するにせよ、音韻研究するにせよ、語彙研究するにせよ、まずはこの漢字だけの古代日本語表記をどう解読し、言葉の形をあきらかできるのか。その綿密な検討を経て、しかるのちに各論を議論の俎上に上げることができます。そういった漢字だけの文献に向き合う研究の方法論自体から考え直していったのが、この本です。なお、題名の「上代」というのは、古代でも、特に奈良時代以前を広く指す呼称です。

もともと私は萬葉集に興味を持っていて、卒業論文と博士論文は萬葉集の歌やその漢字について研究してきました。修論だけ寄り道をして中世の仏典などの漢字音研究をしたのですが、結局日本の歴史の、一番古い時代の漢字研究に魅せられて、また古代へと戻ってきて、今日の研究に繋がっています。この本は、私にとって二冊目の本で、一冊目は博士論文以降、書きためていた萬葉集の中の具体的ないくつかの漢字の使い方を巡る論文を集めた内容でしたが、今回のこの本は、その一冊目を書いている間に様々に浮かんできた研究方法上の疑問点を、どう解消するか、あるいはどう新たな視点で分析するかといった方法論のアイデアそのものから述べたものです。データベースの作り方、その処理の仕方、先行論の再検討など、すでに一冊目でいろいろ取り組んだのに、ある意味妙な話なのですが、先行著作を書き終えて、あらためて研究の基盤に立ち戻ってみようとおもったのでした。一番留意したかったのは、読み手と書き手はすれ違うと前提してみる、ということです。この文章自体、今、一言一句みなさんに読み解かれている…と信じていますが、なかには保証がない場合もあります。たとえば「あまり人気がないにのに下手に出る必要はないよ」という一文、とっさにどう読まれましたか?「あまりニンキがないのにシタテに出る必要はないよ」でしょうか。実は私は「あまりヒトケがないのにヘタに出る必要はないよ」のつもりで書きました。こちらを思い浮かべた方は正解ですが、当たらなかった方もおられるでしょう。それはいずれも、偶々当たっただけ、外れただけと考えてみることにしました。つまり、そもそも読み手は表記から好きに読みを取り出している、メタテクストを作り続けている、そう考えてみると、古代の漢字ばかりの世界に向き合う方法論もこれまでとは少し違った風景で見えてきます。何より、分析する自分がいまどこにいるのか、それがよく分かります。

そもそも現代語表記より、もっと手がかりが少なく、漢字ばかりの表記は何通りにも読めてしまったりしますので、自分が読んだ読みが、古代人が書いた言葉だとは限らない(正解だと確認がとれないこともある)と思って研究に臨む――こういう精神を軸に、一書を書きました。今後、この自分が立てた理論でどこまでいけるか、歩んだり、立ち止まったり、時にまた回り道しつつ考え続けていきたいと思います。

刊行に当たっては、2020年度JSPS研究成果公開促進費(20HP5055)の助成をうけました。